市政情報

街なか案内板整備事業「しもつま歴史探訪」

しもつま歴史探訪

しもつま歴史探訪とは?

 下妻市は古くからの歴史があり、下妻駅周辺には寺社仏閣が多いという特色があります。
 その特色を交流人口の増加とまちなかの賑わいの再生に活かすため、下妻駅周辺の歴史に関する施設20箇所へまちなかを巡る案内板を設置しました。
 各施設の案内板には、施設の特色を表した集印を設置しました。集印をしながら、下妻市の歴史に触れてみませんか?
 20箇所全ての集印を集めた方には、記念品をプレゼントします。
 ※この事業は、下妻駅周辺都市再生整備事業として実施しました。

遊び方

 集印帳を下記の場所にて購入(税込み500円)し、施設20箇所を巡りましょう。集印を全て集めた方には、記念品をプレゼントします!

 ※施設の営業日および販売時間については、各施設により異なりますのでご注意ください。

  1. 道の駅しもつま「お土産・コンビニコーナー」
  2. Waiwaiドームしもつま「事務所」
  3. 下妻市観光交流センター さん歩の駅サン・SUNさぬま「下妻マルシェ」

歴史探訪1歴史探訪2

集印を取る様子。集印帳の用紙(ピンクと施設の説明文が書かれた白い紙)を集印の上に被せ、棒でこすると形が浮き出ます。
用紙を抑え、力強くこするのがポイントです。

記念品受取場所

20カ所全ての集印を集めた方は、次の場所で記念品を受け取ることが出来ます。

 ※施設の営業日および受取が可能な時間については、各施設により異なりますのでご注意ください。
    
    1.Waiwaiドームしもつま「事務所」

    2.下妻市観光交流センター さん歩の駅サン・SUNさぬま「下妻マルシェ」


案内板設置箇所(施設名から地図にリンクします)

No.  施設名
(ひらがな)
説明文
1

雲充寺
(うんじゅうじ)

雲充寺

 多賀谷氏の始祖家政が開祖となって、発祥地の武蔵国騎西庄多賀谷郷(埼玉県加須市内田ヶ谷)に創建、多賀谷氏が下妻に進出した際、ここに移して再興したという。
 十夜念仏供養塔は、十夜講の建立。古くから旧10月6日から15日までの十昼夜にわたって法要が営まれ、本山から迎えた上人の説教を行い、近郷近在から多くの信者が集った。十夜餅も頒けられていた。戦前までは、行屋で年寄りたちが十夜念仏を唱えていたこともあり、「おじゅうやえ」と呼ばれている。
 また、西南戦争で戦病死した永田氏の墓碑の隣に西南役慰霊碑が立っている。政府軍、薩軍を問わず、すべて犠牲者の冥福を祈ったもので、明治16年(1883)建立。永代回向料を寄付した141人の連名と村世話人6人の名が刻されている。
 昭和20年7月米軍の艦砲射撃に遭い、日立製作所多賀工場で殉職した挺身隊の供養碑もある。

2

小野子観音堂
(おのこかんのんどう)

02小野子観音

 小野子観音堂に安置されている「木造 千手観音堂」は、県文化財の指定を受けている。
 この像は、市指定文化財となった昭和54年当時、頭部内に永正17年(1520)の墨書銘が確認されていたため、疑問を抱きながら、抜群の出来栄えを示す室町彫刻とされていた。
 しかし、平成9年に行われた解体修理で、永正年時の墨書銘が修理時のものであることが判明、改めて鎌倉彫刻として適当な評価を得ることとなり、平成11年、県文化財の指定を受けた。
 また、小野子観音堂は、小野子公民館の新設にあたり、公民館機能と「木造 千手観音坐像」を安置する観音堂とを併設することとなり、現在の姿となった。
3

旧ビンフォルド邸
(きゅうびんふぉるどてい)

03ビンフォルド邸

 旧ビンフォルド邸(現、キリスト友会下妻月会)は、ビンフォルド夫妻の住居として大正12年(1923)に建築された。
 ご夫妻は、アメリカ人で共にキリスト教フレンド派(クエーカー)の会員であった。クエーカーは内なる光を信じ、簡素な生活態度と兵役も拒否する平和主義を信条とし、ノーベル平和賞を受賞した団体である。
 ご夫妻は、明治32年(1899)、フレンド派の伝道師として水戸に派遣された後、大正11年(1922)、下妻に赴いた。
 ビンフォルド婦人は、大正15年(1926)、下妻小友幼稚園を創立し、初代園長に就任している。昭和11年(1936)に帰国した。
4

光岸寺
(こうがんじ)

04光岸寺

【山号等】無量山最勝院
【宗派】浄土宗
【開祖】徳誉牛悦
【本尊】阿弥陀如来三徳像
【創建】嘉暦元年(1326)
【縁起】小島の地に創建されたが、徳川家光時代に現住地に移された。
【寺院】釈迦涅槃図(狩野湛楽、春智、雅信作)
【塔碑】元治元年(1864)7月、天狗騒動において坂本で戦死した下妻藩士、水戸藩士各一基の墓石がある。また、戊辰戦争のとき佐幕軍の強要により、下妻藩は今村昇(忠礼)以下藩士十数名、卒十数名および兵糧、弾薬を提供した。後に今村は新政府軍に捕殺されたが、その墓碑もここにある。

5

高福寺
(こうふくじ)

05高福寺

【山号等】庭上山無量院
【宗派】時宗
【開祖】新福寺住職二十世其阿
【本尊】阿弥陀如来三尊
【創建】元亀元年(1570)
【伽藍】本堂
6

光明寺
(こうみょうじ)

光明寺

【山号等】西木山高月院
【宗派】真宗大谷派【開祖】明空房
【本尊】阿弥陀如来【創建】承久2年(1220)
【縁起】建保元年(1213)三浦荒次郎義忠が和田合戦で敗れ、東北へ落ちのびる途中この地を通り、親鸞聖人の法談を聞きその弟子となり、明空の法名をうける。
【寺宝】木造聖徳太子童子像(県指定文化財)、親鸞門侶交名(県指定文化財)、十字名号。三尊来迎仏、九字名号、横巻御絵伝(市指定文化財)、親鸞聖人木像、生蓮華など。
【伽藍】本堂、開基堂、太鼓堂、山門、庫裡、鐘楼
【樹木】親鸞聖人お手植の樹歳800年の菩提樹(市指定天然記念物)、明空房御手植の樹歳800年の柊(市指定天然記念物)
【塔碑】親鸞聖人歌碑、長塚節自筆の歌碑、開基明空房歌碑、元治元年(1864)の天狗騒動戦死者の下妻藩士二基、水戸藩士一基の墓石がある。
7

五所神社
(ごしょじんじゃ)

07五所神社

 祭神は道雄命、木花咲耶姫命、大国主命、蛭子命、市杵島姫命。例祭は11月25日。
 天禄2年(971)源順(平安中期の歌人・学者)が関東へ下向の際、平将門の怨霊を鎮めるため関東の守護神として創立したと伝える。牛頭天王を祀り、天王さまとよばれていた。本殿は欄干の擬宝珠の銘によると、正徳元年(1711)の再建である。明治になると天王さまの名を八坂神社と改め、明治6年(1873)4月村内に散在していた神社を合祀し五所神社とふたたび改めた。
 もとは現在の常陽銀行下妻支店の敷地内に祀られていたが、昭和11年(1936)現在地に移り、大神輿はその記念の作だという。跡地の一隅に樹齢約700年の大イチョウがそびえ、御神木として崇められていたが、昭和46年(1971)ビル工事の際切り倒されてしまった。
 その跡には「下妻発祥の地」の碑がある。
8

砂沼
(さぬま)

08砂沼

 鬼怒川の河道が現在のように南北に流路をとる前は、下妻市長塚周辺から東に東流し、下妻市比毛周辺で小貝川と合流するなど、その河道の変遷はまさに「鬼が怒る」の前の通り、暴れ川そのものだったと考えられ、砂沼の成り立ちは、その鬼怒川の流路の変遷に深く関わっていたと推測される。
 時期は不明であるが、はじめ鬼怒川の流路が現在の砂沼周辺を流れており、次に鬼怒川の流路が変わった際、低地であった現在の砂沼周辺の旧河道跡に台地からの絞り水が流入し、その出口が堰き止められ、現在の砂沼の原形となったと思われる。
 また、いつから「さぬま」と呼ばれていたのかは定かではないが、天和3年(1683)頃に作成されたと推測されている「常陸下妻城図」(『諸国古城之図』広島市立中央図書館浅野文庫蔵)には、「サ沼」と表記されており、江戸時代の前期頃には、「さぬま」と呼ばれていたと推察される。
9

下妻駅
(しもつまえき)

09下妻駅

 明治44年11月1日、常総軽便鉄道株式会社(常総鉄道株式会社)の設立が国に認めれ、明治45年6月9日に本社設立、大正2年2月21に水海道駅予定地で起工式を挙行、同年、11月1日より取手~下館間の全線で営業が開始された。これにより、下妻の地を鉄道が走ることとなった。
 その後、常総鉄道は昭和20年3月20日、筑波鉄道と合併し、常総筑波鉄道となり、昭和40年6月1日、鹿島参宮鉄道と合併し、関東鉄道となり、現在に至る。
 下妻駅は大正2年11月1日開業。現、茨城県立下妻第一・第二高等学校に近く、鉄道を利用した多くの学生で賑わっている。また、映画「下妻物語」のロケにも使用された。
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下妻街道
(しもつまかいどう)

10下妻街道

 下妻街道(下妻道)は、日光街道千住宿から常陸国真壁郡下妻を経て、奥州街道喜連川宿を結ぶ街道である。奥州街道喜連川宿があった栃木県さくら市には、「右 江戸道 左 下妻道」の道標が現存している。
 道のりは、奥州街道喜連川宿から下妻まで約18里(約72km)、日光街道千住宿から下妻まで3ルート※どこを通っても約18里(約72km)であった。
 ※案内板に図が記載しております。
11

下妻神社
(しもつまじんじゃ

11下妻神社

 天正19年(1591)、多賀谷修理太夫重経が古沢村の牛頭天王を歓請して建立したものと伝えられ、以来「天王様」の称で人びとに信仰され親しまれてきた。例祭は11月23日。
 そして江戸時代、井上下妻藩初代遠江守正長が正徳2年(1712)に入部してからは、城廻村(現在の下妻乙番地)の守護神として崇敬された。正長が社殿を再建したとの説もある。「西町牛頭天王」の神輿の渡御に際しては、藩主の名代が陣屋大手門前に出迎えて拝礼したという記憶が、下妻藩吉沢家文書に見える。
 明治時代になり、素戔鳴尊他八柱(大日孁命、倉稲魂命、国常立命、大山作命、武甕槌命、月夜見命、奥津彦命、市杵島姫)が合祀され、下妻神社となった。
 また、境内の大欅は、樹高20メートル、幹周7メートル、推定樹齢500年以上といわれ、市指定天然記念物である。
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城山稲荷神社
(しろやまいなりじんじゃ)

12城山稲荷神社

 祭神は倉稲魂命。例祭は旧2月初午日。宝徳年間(1449~52)、下妻城主多賀谷広元が城内へ鎮斎して崇敬した。天正16年(1588)、小田原の北条勢は小島と古沢の二方面から攻撃、多賀谷軍と激戦が行われた。
 天正17年秀吉の小田原攻めに備えて小田原勢は引き退いた。多賀谷勢は喜び安堵し、これは稲荷神社の加護によるものとし、狭い城内に祀って置かず、眺めのよい広い所へ祀らねばならないと西館に社を建てた。天正17年9月24日祈願奉納の懸仏に以下の記載がある。
   常陸国下妻庄 鎮坐守護
   当城堅固武運長久
   奉勧請稲荷大明神 御正軆之攸
   子孫繁昌 領内豊饒
   大願施主 多賀谷修理太夫重経
   供養師 探題権僧正亮信記之
13

新福寺
(しんぷくじ)

13新福寺

【山号等】庭上山瑞龍院【宗派】時宗【開祖】都阿知栄
【本尊】阿弥陀如来【創建】文永9年(1272)
【縁起】結城氏三代の広綱が都阿上人に帰依し、結城に長楽寺を建立した。逝拠後法号を「新福寺殿教阿弥陀仏」といった。これより長楽寺を新福寺と改めた。康正元年(1455)多賀谷氏家が下妻に築城するにあたり、同寺を城中に移したものといわれる。
【寺宝】本尊阿弥陀如来立像(鎌倉末期)、不動明王画像、山門(江戸末期)
【伽藍】本堂、庫裡(再建)、山門、熊野権現社
【塔碑】多賀谷氏家供養塔、観音菩薩石像、美女塚碑
14

陣屋公園
(じんやこうえん)

陣屋公園

 ここ陣屋公園は、その名のとおり、井上家下妻藩の陣屋が置かれた場所に所存している。
 井上家下妻藩の立藩は、井上本家の井上正岑が美濃国郡上藩主の時、弟の井上正長に三千石を譲ったことに起因する。その後井上正長は旗本となり、後に六代将軍となる徳川家宣に仕え、徳川家宣死後の正徳2年(1712)に加増され諸侯に列し、井上家下妻藩初代藩主となる。
 井上家下妻藩は正徳2年(1712)の創藩以来、明治4年(1871)の廃藩まで約160年間下妻を領した。その所領は常陸国真壁郡、武蔵国埼玉群、大里郡及び下野国都賀郡の内にあり、表高一万石であった。武州領と野洲領は散在する村々で、まとまった所領の中心が下妻であったため陣屋が置かれた。
 昭和40年代頃までは、陣屋の内外を区画していたと考えられる高さ2~3メートルの土塁が残っていたが、宅地化により現代では、ほぼ消滅してしまった。
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多賀谷城(下妻城)本丸跡
(たがやじょう(しもつまじょう)ほんまるあと)

多賀谷城本丸跡

 

 市指定文化財。下妻城の築城については、『多賀谷家譜』氏家の項に「賜常州河内群居関館而、相攸於下妻郷築城、構東西両館之要害、以東館為本丸、創功於康正元年(1455)、寛正二年(1461)落成矣」とあり、城郭の拡張を行った記載が見える。
 このように城郭として堅固であった下妻城の遺構は、昭和30年代まで曲輪、堀、土塁などが保存状態よく残存していたが、昭和40年代下妻駅東都市計画事業の一貫として本丸周囲を除き、その他の大地を約2メートル削って、その土で低地を埋め、現在の姿となった。
 現在、本丸跡は多賀谷城址公園となっている。
16

多宝院
(たほういん)

16多宝院

【山号等】潜龍山護国寺【宗派】曹洞宗【開祖】少伝宗誾
【本尊】釈迦如来
【縁起】元大串村にあり、天文年中(1532~55)下妻城主多賀谷家植が当院を城域に移築し、菩提寺とした。元治元年(1864)7月天狗騒動の戦火にあい焼失。明治40年(1907)古屋を求め仮本堂として建立。平成3年に改築。
【塔碑】当院墓地の中央に「当院開基龍山祥潜大居士」と刻まれた角柱碑、およびその左に五輪碑があり、これが多賀谷家植の墓である。多賀谷氏の菩提所というが累代の墓石は不明。
17

普門寺
(ふもんじ)

17普門寺

【山号等】沼音山慈眼院【宗派】天台宗【開祖】尊海
【本尊】十一面観世音菩薩
【縁起】正平12・延文2年(1357)、下総国豊田郡飯沼城主飯沼憲時が一庵を建立。弘和2・永徳2年(1382)飯沼範遠が庵を下妻に移し、叡山実相坊心海法印の弟子尊海を開祖とする。
【伽藍】本堂、庫裡
【塔碑】須田亮哉句碑(秋葉塚墓地)
【金仏さん】縁結びで知られた2体の露座の金仏さん(金剛界、胎蔵界の大日如来、高さ約3メートル)が本堂前に安置されたいたが、太平洋戦争時に供出させられた。
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百体観音堂
(ひゃくたいかんのんどう)

18百体観音堂

 観音堂にたくさんの観音さまが祀られている。古くは相原山長春院という寺院があったが、廃院となり、観音堂だけが残った。下妻坂東三十三ヵ所の五番礼所となっている。
 安産、子育てを願って年4回の講が続けれている。
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林翁寺
(りんのうじ)

19林翁寺

【山号等】瑞祥山【宗派】曹洞宗【開祖】多宝院九世伝室前授
【本尊】延命地蔵菩薩【創建】元和元年(1615)
【伽藍】本堂(平成元年改築)、庫裡
【塔碑】村松玄長墓碑がある。玄長は下妻藩士。幕末から維新にかけての藩の子弟を教育する下妻藩校修道館の教授。学頭は将軍徳川家茂の侍講であった菊池三渓で、1年足らずだが、大町東側に門人とともに起居した。
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Waiwaiドームしもつま
(わいわいどーむしもつま)

Waiwaiドームしもつま

 Waiwaiドームしもつまは、商業施設の撤去後、約20年間大規模遊休地であった場所を、にぎわい広場として下妻市が再整備したもので、平成29年(2017)4月に供用開始された。
 市街地のにぎわい再生を目的に、この広場と砂沼南岸の観光交流センターの二つの拠点整備を行った「プレイスメイキング(一人一人が居心地の良い街の居場所づくり)」の手法を取り入れ、街なかのハード整備でありながら、人の動きや心地良さ、使い易さに着目した事業プロセスが評価され、第13回まち交対象(平成30年度)において、最優秀賞にあたる国土交通大臣賞を受賞した。
 この地の小字「龍沼(たつぬま)」はかつては湿地で悪さをする龍が住んでおり、安楽寺の住職が封じ込めたという伝説に由来すると言い伝えられている。

 

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